何もない天空の静寂 八ケ岳本沢温泉 [湯・動生活]

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 切り立った八ケ岳は、青みがかった表情を見せたかと思うと、ふいに深い森の中に姿を消す。太古の面影さえ残るコメツガやシラビソの原生林を、歩き続けた。いったいこの森は私を解き放してくれるのだろうか。遠く近く、カッコウの声がこだまする。5月末の山の空気はいまだ冷たい。
 ふと見ると携帯は圏外を示している。この小さな機械に日常を縛られる自分がこっけいに思え、電源をオフにした。

 静寂な時間が過ぎる。登ること2時間、硫黄岳の山懐にある本沢温泉がようやく見えた。
内湯のある宿から5分ほど登った「雲上の湯」は、硫黄岳を刻む渓谷にあり標高2150メートル、日本有数の天空に近い温泉だ。底から沸く青灰色(せいかいしょく)の湯が、露天の湯船を満たす。見ると男性がぽつんと一人、湯につかっているだけ。私も無心になって体を沈めた。
白く細い渓流が脇を流れ、やがて千曲川へと注ぎ込む。振り向くと硫黄岳の岩壁、青空が高い。湯から上がり、木陰の残雪を顔に当てると、ほてりがすっと引いた。

 厳冬期以外、本沢温泉に住み込んで宿を手伝っているという20代の女性がいた。ファッションやブランドに一番関心がありそうな年頃なのに、この場所にいることが不思議に思え、その魅力を尋ねた。すると一言。
 「何もないところ」
 飾らないその答えが、むしろ心に響いた。モノにあふれかえり、求めてやまない今の暮らしを、ふと省みた。

 車の横付けは当然、豪華さを競う温泉施設が多いなか、山行でしかたどり着けない本沢温泉は、まさに秘湯の名にふさわしい。
 街の喧騒から離れたくなったら八ケ岳の山旅に出かけよう。「何もない」というぜいたくな時間が、ここに流れているから。

朝日新聞2008年6月10日掲載 「湯の旅」コラム
http://www.asahi-mullion.com/column/yunotabi/80610index.html

※ 2ヶ月に1回程度、朝日新聞(東京本社管内)に書いている温泉コラムです。
 東日本にお住まいの方は、ご覧いただいているかもしれません。


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