死を受容した時代のまなざしを [コラム]

 「死」がブームだ。

 「おくりびと」や「悼む人」の影響にもよるのだろうが、冒頭、こうした不謹慎ともいえる言葉で始まらざるを得ないのも、今日、死が、いかに遠ざけられ、フィルターが掛けられてきたのかの反証といえる。
 本来、人の生と同じ数だけあるはずの死が、なぜ見えなくなってしまったのだろう。
 核家族化の進行、地域コミュニティーの崩壊などによって、かつては大勢で見守ったはずの葬送が失われ、ビジネス化し、よそ行きなものになったことも、理由のひとつだろう。

 行動生物学者のリチャード・ドーキンスは、生物は遺伝子によって利用される乗り物にすぎないという。私とは、遺伝子のプールされたペットボトルでしかないのか。ならばことさら死を嘆かずともすむ。
 しかし死の嘆きは、私たちがホモ・サピエンスとなった時点から、心に宿っていた。多様な生物のなかで、死を観念的に理解し、あの世の存在を思い描くのはわれわれ人類だけだ。

 考古学は墓掘りなどと揶揄(やゆ)されるが、実際私自身も、縄文から近世まで、さまざまな時代の墓を掘ってきた。
 縄文では、死者に抱き石をさせ埋葬した例がある。再び立ち上がることのないように。古墳では、黄泉の国としての石室に、死者を封じ込めた。江戸期の死者には寛永通宝が、三途(さんず)の川の渡し銭として添えられていた。それぞれの時代、それぞれの世界観によって、死は受け入れられてきた。

 人の死を、ふたたび白日のもとにさらす考古学とは、なんと罪深い行為なのだろう。
 であるならばせめて、光り輝く副葬品に目を奪われることなく、繰り返される死を受容した時代のまなざしを感じよう。そしてそのまなざしを、たとえわずかなりとも、遠ざけられた現代の死に照射してみるのだ。

朝日新聞(長野版) 2009年4月24日 コラム
http://mytown.asahi.com/nagano/news.php?k_id=21000190904240003
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