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アルコ・ホリック [コラム]

本日は飲み会。
ブログはお休みします。

狩猟採集民と酒 [コラム]

ブッシュマンの遊動社会が、ボツワナ政府の定住化政策によって荒廃し、定住地に居酒屋が出現して、人々は酒に飲まれるようになったと、生態人類学者の田中二郎氏は嘆いていた。まさに酒は、「亡国の水」になりかねないという。
一方、青森県三内丸山遺跡ではニワトコの種子がたくさん見つかり、縄文時代に酒を醸造していた可能性が高まったという。

それ以前の旧石器ではどうか。おそらくその直接的証拠も無く、醸造具も考えにくいので、飲んでいなかったのだろう。

ホモ・ サピエンスの美学 [コラム]

 人間とは何か。こうした問いかけに、さまざまな答え方ができるが、私たちホモ・サピエンスには「芸術家」という称号がぴったりだろう。私たちとは異なる人間であるネアンデルタール人にも芸術の芽生えは見られ、動物の歯に穴を開けたペンダントなどは持ったようだが、創造性豊な絵を描いたりするまでには至らなかったようだ。

 ホモ・サピエンスはすでに七万五〇〇〇年前から絵を書いていた証拠がある。南アフリカのブロンボス洞窟からは、幾何学的な模様が描かれたオーカー(顔料石)がみつかり、胸元の装飾品である貝殻のビーズなども発見されている。
 およそ四万年前の後期旧石器人たちは、フランスのショーヴェ洞窟のキャンバスに思い切り動物たちを描いた。サイ・マンモス・ヒョウなど描かれた動物は、二〇世紀キュービズムのピカソの出現をまたなくとも、その立体感は完成され、いまにも動き出しそうである。また、ドイツ・ガイセンクレステレ遺跡では骨製のフルートが見つかっており、昨年ドイツのコナード教授が来日の折、再生した音色は神秘的だった。

 日本列島では、わずかに装飾品であるビーズが北海道のピリカ遺跡や湯の里4遺跡、柏台1遺跡で発見されている。静岡県富士石遺跡から出土したペンダントには、一四の切れ込みがあり、ひとつひとつの数を記憶として刻み込んだ可能性がある。
 シンボルを持ったり、芸術をおこなうという象徴的行為は、生命の維持といった生物学的観点からは、かくべつ人類に必要がない。しかし生物学的には無意味に思えるこの行為にこそ、私たちがホモ・サピエンスである証しがある。シンボルや芸術は、文化的な装置として社会や生命の維持を担う。また、それらの放つメッセージは人々に共有される。
 たとえばピカソのゲルニカを見て、私たちはその背後にあるナチズムの残酷さを暗に読み取ることができるように。



カミの宿る場所 [コラム]

 わが家に電気釜がやってきた日のことを、正確には覚えていない。

 しかしそれは、革新的な出来事であったことには違いない。祖母や母は、それまで毎日欠かすことなく、朝早く起きてカマドに火を入れ、炊飯をしなければならなかったからだ。家々からカマドの煙が途絶えたのは何時の事だったか。わが家のカマドは昭和五〇年頃と比較的遅くまで機能し、私も焚き木の準備などをしたことがある。

 日本にカマドが大陸から伝わったのは、古墳時代の五世紀頃といわれている。それまでの縄文・弥生的な素朴なイロリにかわって、きわめて熱効率の良いカマドの登場は、現代の電気釜さながら衝撃的に受け入れられたことだろう。
 考古学という仕事がら、私は二〇〇を超す古代住居跡のカマドを発掘したが、きわめて興味深い事実を目の当たりにした。発掘されるカマドが、ことごとく破壊されているのだ。それは当時の人々が住居を新しくする際、古いカマドをわざわざ取り壊して、カマドに宿る神を送り出す行為と思われた。

 平安の陰陽師・安倍晴明によれば、カマドが使用されなくなりその祀りが途絶えると、廃竈神【すたれ・かまどがみ】が誕生するという。人々は祟り神である廃竈神の誕生を恐れ、カマドを壊したのか。いずれにせよその行為の裏には、カマドに対する深い信仰心があった。
 東北地方の農家などでは昨今まで、カマドの上にカマド神の面が掛かっていた。カマド信仰は古代より、脈々と息づいてきたといえる。

 今日、電磁式調理具なるものが普及し始め、台所でまったく火を見かけぬことも多い。利便性と安全性という名のもと、火の気のない台所は、もはや”神の宿る場所”ではなくなってしまったらしい。

朝日新聞(長野版)2007年1月掲載コラム 

死を受容した時代のまなざしを [コラム]

 「死」がブームだ。

 「おくりびと」や「悼む人」の影響にもよるのだろうが、冒頭、こうした不謹慎ともいえる言葉で始まらざるを得ないのも、今日、死が、いかに遠ざけられ、フィルターが掛けられてきたのかの反証といえる。
 本来、人の生と同じ数だけあるはずの死が、なぜ見えなくなってしまったのだろう。
 核家族化の進行、地域コミュニティーの崩壊などによって、かつては大勢で見守ったはずの葬送が失われ、ビジネス化し、よそ行きなものになったことも、理由のひとつだろう。

 行動生物学者のリチャード・ドーキンスは、生物は遺伝子によって利用される乗り物にすぎないという。私とは、遺伝子のプールされたペットボトルでしかないのか。ならばことさら死を嘆かずともすむ。
 しかし死の嘆きは、私たちがホモ・サピエンスとなった時点から、心に宿っていた。多様な生物のなかで、死を観念的に理解し、あの世の存在を思い描くのはわれわれ人類だけだ。

 考古学は墓掘りなどと揶揄(やゆ)されるが、実際私自身も、縄文から近世まで、さまざまな時代の墓を掘ってきた。
 縄文では、死者に抱き石をさせ埋葬した例がある。再び立ち上がることのないように。古墳では、黄泉の国としての石室に、死者を封じ込めた。江戸期の死者には寛永通宝が、三途(さんず)の川の渡し銭として添えられていた。それぞれの時代、それぞれの世界観によって、死は受け入れられてきた。

 人の死を、ふたたび白日のもとにさらす考古学とは、なんと罪深い行為なのだろう。
 であるならばせめて、光り輝く副葬品に目を奪われることなく、繰り返される死を受容した時代のまなざしを感じよう。そしてそのまなざしを、たとえわずかなりとも、遠ざけられた現代の死に照射してみるのだ。

朝日新聞(長野版) 2009年4月24日 コラム
http://mytown.asahi.com/nagano/news.php?k_id=21000190904240003

発見のフィールドに立って [コラム]

「食えないから、やめときな」

 良識ある大人はこう忠告してくれた。私が考古学の道を目指し大学進学を考え始めた頃だ。それから30年、大方の予想に反し、細々とではあるが今も考古学で飯を食っている。
 私が勤めているのは浅間山が美しく見える小さな町の考古学博物館である。国立の研究機関や大学の考古学研究室などからすれば、研究の最末端にいて、もがいているといっていい。

 人は時々、私の立場を哀れんでくれたりするが、特に悲観してはいない。それは考古学という学問が地位や名声にかかわらず平等に門戸を開いているからだ。考古学など野外科学が魅力的なのは、フィールドとわずかな志さえあれば、どんな立場でもやっていけるからである。
 やや負け惜しみに聞こえるかもしれないが、都心のビルの革張りのいすにすわる大学教授より、遺跡という現場に直面した在野の研究者は最前線にいるということもできる。
 同じ考古学者であるインディ・ジョーンズ氏の行動はスリルとサスペンスに満ちているが、こちらはそう格好良くはいかない。古墳の暗い石室で生々しい白骨と対面したり、トイレらしき穴を泥まみれで発掘したり、さえない体験も少なくない。

 それでも私を考古学へと駆り立てるもの、それは「発見のフィールド」にある。
 「ドーナツが出た!」
 90年夏、浅間山麓の縄文遺跡から出た4500年前の土器を見て、発掘参加者が叫んだ。駆けつけると、それはドーナツ状の文様で飾り立てた焼町(やけ・まち)土器と呼ばれる優れた原始造形だった。
その時に感じた胸騒ぎが9年後、的中する。焼町土器など100点以上が日本を代表する国重要文化財に指定されたのだ。うれしさがこみ上げてきた。だから考古学はやめられない。

朝日新聞(長野版) 2008.10/1 掲載コラム 
http://mytown.asahi.com/nagano/news.php?k_id=21000190810010002

死の喪失のなかから [コラム]

 ガンで父を亡くした妻のもとに、若い友人から1冊の本が届いた。
 「わすれられないおくりもの」というスーザン・バーレイの絵本である。
 面倒見のいい年老いたアナグマが、村に住む動物たちに別れを告げ死へと旅立つ物語で、残された動物たちは悲嘆に暮れるが、やがてアナグマがたくさんの知恵や思い出を残してくれたことに気付き、死の悲しみを乗り越えていくという「死と再生」の寓話である。
 弔電でも、告別の言葉でもない無言の友人のいたわりに、私は心が温かくなった。

 かつて日本の平均寿命は、縄文時代では30歳程度であった。5千年以上の歳月を経た今日、寿命は80歳前後に伸びた。では5千年後の未来、倍となる150歳の寿命を人間が得るのか。
 おそらくそうはいくまい。そして、寿命が30歳であれ、80歳であれ、近しいものの死を受け入れる苦悩は、過去も現在も変わりはあるまい。
 死の喪失から心が立ち直るまでの助けを「グリーフ・ケア」というようだが、人間関係がドライな現代だからこそ、逃れがたい死の嘆きからのケアが必要とされるのだろう。

 辰野町に住むフォーク・シンガーの三浦久さんが歌うもうひとつの「千の風」がある。米国で語り継がれるこの詩を、ボブ・ディランの訳詩で知られる三浦さん自らが日本語に訳し、オリジナルなメロディーをつけた曲だ。とうとうと歌い上げられるあの千の風とは異なり、ギター1本で語りかける三浦さんの歌は、死の喪失を深く癒やしてくれる気がしてならない。

 人の死は2度あるといわれることがある。1度目は肉体的な死。そしてすべての人の記憶からその人のことが消え去ったとき、決定的な2度目の死が訪れる。
 思い出が消えない限り、私たちのそばに、愛するものがいてくれるのだろう。



朝日新聞(長野版) 2008年11月26日 ”八ケ岳”執筆コラム
http://mytown.asahi.com/nagano/news.php?k_id=21000190811260002

このコラムは、”八ケ岳”が朝日新聞(長野版)に、不定期で執筆しているものです。
時折、紹介させていただきます。


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