デス・エデュケーションと考古学 [思考漂流]

小学校の出前考古学授業に時おり呼ばれると、おもいっきり“死”の話をしてくる。

考えてみると私は、縄文の墓、弥生の墓、古墳と人の墓ばかり掘ってきた"墓掘り屋"で、
(旧石器だけは掘ったことがない。誰しもそうだろうが・・・)
時代の人の死から何が見えてくるのかを、しばしば考えるからだ。

日本の小学校教育ではデス・エデュケーションがない、という不幸な現実がある。
学校は小学生には、希望をもて、前向きに生きよ、とは教えるが、“死”は語らない。

もちろん、たかだか10年の人生を過ぎたばかりの小学生に“死”は、リアリティーをもって受け入れ難いのかもしれない。
また、核家族化で、ニューファミリーが“死”に立ち会わなくなり、余計にそうだろう。
しかし、人の生が死と常に隣り合わせであることは避けられない現実である。

幼い命が理不尽な理由で消えてゆくことも多い今日だからこそ、
“死”について学び、今ある“生”の喜びを知る必要がないだろうか。

人の死を見つめる考古学は、その教育の一端を担うべきであると考えている。


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momo

とても共感します。
by momo (2011-03-01 13:00) 

鷹見泉石

この文章から「死」について大学で授業を受けたときをふと考え直しました…モンゴルでは死体を遺棄し帰ることを意味する。これは大切なことのように今でも思っております。といってもモンゴルには住める人種ではない状況なので…深く文化と接する機会はことはないようです。「死」について学ぶことはとにかく理解できます。
by 鷹見泉石 (2011-03-08 02:38) 

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