マンロー ここに眠る [遺跡]

マンロー墓.JPG

日本にいち早く旧石器文化の存在を説いたN.G.マンロー。

大正13年に横浜から軽井沢のサナトリウムに移り、院長となった。
昭和5年には、私の勤める御代田町の宮平遺跡の発掘現場を訪れ、八幡一郎と歓談する。

その頃から、軍靴の音は次第に高くなり、英国人だったマンローは憲兵に理由もなく、殴る・蹴るの暴行も受けたという。
やがてアイヌの文化に深い関心を示したマンローは、北海道二風谷へと渡る。

「私が死んだらコタンの皆と同じように葬ってほしい」
マンローはこう伝え、その墓は二風谷にある。

そしてもうひとつの墓が、軽井沢駅前から歩いて10分、六本辻の外人墓地にある。
マンローは軽井沢の喧騒をよそ目に、静かに眠りについているのだ。



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